2006年08月18日
一杯のコーヒー
ウィーンから
共産主義が旧ソ連・東欧諸国を席巻していた時代、コーヒーは貴重品だった。訪問した客に一杯のコーヒーでもてなすことは最上級のもてなしを意味したほどだ。
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旧ユーゴスラビア連邦時代の反体制派活動家ミロバン・ジラス氏に会うためにベオグラードの自宅を訪問したことがあるが、エリザベス夫人はその時、コーヒーではなく、ティーで記者をもてなしてくれた。一方、チャウシェスク政権時代のルーマニアを取材した時、日本貿易振興機構(JETRO)のブカレスト支局長は記者にコーヒーを出してくれた。両取材の内容は既に忘れてしまったが、ジラス夫人がティーで、ブカレスト支局長がコーヒーでもてなしてくれたという事実だけは、20年余り過ぎた今日でも鮮明に覚えている。それほど、訪問者にコーヒーでもてなすということは当時、決して“日常茶飯事”ではなかった。
コーヒーでもてなすことが出来る家では、家人は「コーヒーにしますか、ティーにしますか」などと客に聞かず、コーヒーを出す。コーヒーで客をもてなすことは、もてなす側にとっても特別な意味合いがあったからだ。
グラシュ共産主義といわれ、他の東欧諸国よりも経済改革が先行していたハンガリーからバスでウィーンに買い物に来るマジャール人が多かった。バスがウィーンに到着すると、彼らはウィーン美術博物館など名所旧跡ではなく、ショッピング通りのマリアヒルファー通りに直行し、洗剤とコーヒー豆を買った。コーヒー豆の大袋を旅行カバンに突っ込んで早足に歩くマジャール人を良く見かけたものだ。ウィーンにはマジャール人旅行者専門店もオープンされ、そこにはコーヒー豆が山のように陳列されていた。
冷戦が終わって16年が過ぎた。ブタペストのバーツィー通りには今日、美味しいコーヒーが飲める小奇麗なコンディトライ(喫茶店)が数多くある。コーヒーはもはや贅沢品ではなくなった。
(O)
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コーヒーでもてなすことが出来る家では、家人は「コーヒーにしますか、ティーにしますか」などと客に聞かず、コーヒーを出す。コーヒーで客をもてなすことは、もてなす側にとっても特別な意味合いがあったからだ。
グラシュ共産主義といわれ、他の東欧諸国よりも経済改革が先行していたハンガリーからバスでウィーンに買い物に来るマジャール人が多かった。バスがウィーンに到着すると、彼らはウィーン美術博物館など名所旧跡ではなく、ショッピング通りのマリアヒルファー通りに直行し、洗剤とコーヒー豆を買った。コーヒー豆の大袋を旅行カバンに突っ込んで早足に歩くマジャール人を良く見かけたものだ。ウィーンにはマジャール人旅行者専門店もオープンされ、そこにはコーヒー豆が山のように陳列されていた。
冷戦が終わって16年が過ぎた。ブタペストのバーツィー通りには今日、美味しいコーヒーが飲める小奇麗なコンディトライ(喫茶店)が数多くある。コーヒーはもはや贅沢品ではなくなった。
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この記事へのコメント
1. Posted by 蚊め! 2006年09月19日 02:31
共産主義下ではコーヒーも満足に飲めなかったんですね。今のアメリカなんて、2ドルで挽いたコーヒー豆が買えるのに。
もっとも、その代償がプランテーションで働いている人たちの低賃金、重労働の産物だと言うとちょっとね…。
もっとも、その代償がプランテーションで働いている人たちの低賃金、重労働の産物だと言うとちょっとね…。
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